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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


382件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[384] Intermission (Madame Butterfly - Maria Callas) 4.39

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月31日(土)09時39分10秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用



coffee break



(Live Aid | Bohemian Rhapsody) (2018) scene comparisons (21.33)




[383] "Japanese Opera"『浅草オペラ時代』3/3 

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月31日(土)09時38分11秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

"Japanese Opera"『浅草オペラ時代』3/3

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

1915年(大正4年)3月にアメリカでダンスを学んで帰朝した高木徳子は帝劇に出演し、日本で初めてトウ・ダンス(爪先で立って演じる舞踊)を披露したが、この夢幻的なバレーは大変な評判となった。その頃、新劇社を主宰していた伊庭孝は、後の新国劇創立者の沢田正二郎、後にハリウッドのスターとなった上山草人ら新劇界の一流人を集め新しい演劇活動を起こそうとしていた。そこへ高木徳子が訪れ、ともに手を組み新しいオペラ運動を起こそうと提案されたが、帝劇オペラと異なり歌とダンスとドラマのある和製ミュージカルのことであった。

その第一回公演は、伊庭孝のオリジナル台本の『海辺の女王』であったが、これに高木徳子がアメリカで集めたヒット曲を訳詩をつけて使い、振付は彼女が受け持った。だが、帝劇オペラが失敗したあとだったので、どこも上演を断られ、地方巡業を余儀なくされたが、川上貞奴一座との合同公演では巡業地で好評を博した。これに目を付けた浅草の有名な根岸興行は、さっそく一座を赤坂演技座の正月公演に出演させた。1917年(大正6年)のことだった。(根岸興行は、根岸浜吉(1827年~1912年)が浅草公園六区に初めての劇場「常磐座」を建てたことで知られ、同劇場は浅草オペラの本拠地となった。)

この年は巳年にあたるというので、高木徳子の得意とするスネーク・ダンスを売り物にするために、出し物に美女が蛇に変身する『古塔譚』というインド伝来の伝説を伊庭孝が脚色したところ、評判を呼び、続いてトウ・ダンスを踊る『女の力』という恋愛劇を伊庭が書き下ろすと『古塔譚』以上に評判となった。反響に驚いた根岸興行では、早速、一座を浅草の常盤座に出演させ、出し物として伊庭が書いた『女軍出征』がまた大ヒットとなり、これをきっかけとして浅草オペラ・ブームが到来した。だが、大正12年(1923年)の関東大震災によって浅草オペラは衰退を余儀なくされ、この大打撃によって浅草オペラは再び勢いを取り戻すことが出来なかった。

間接的な原因としては、伊庭孝がスターの一部をひき連れて、関西の生駒山にできたオペラ劇団に移ったことも影響したが、この浅草のオペラ・オペレッタ運動が、そのまま発展していたならば、アメリカが独自のミュージカルを創作していったように、日本でももっと早く独自のミュージカルが生まれていただろうと云われている。

「レヴュー」を最初に浅草で始めたは、1929年(昭和4年)の「電気館レヴュー」で、アトラクションにすぎなかったが、1929年は、不景気風が吹きすさぶ重苦しい年で、「エロ・グロ・ナンセンス」の退廃的なムードが蔓延しつつあり、浅草の軽演劇は、時代の空気を反映するかのようにジャズ、レヴュー、ヴォードヴィル、ドタバタ、ナンセンス、エロ、グロの混じった出し物であった。

その頃、エノケン(榎本 健一「1904年10月11日 ~1970年1月7日」日本の俳優、歌手、コメディアン、日本の喜劇王とも呼ばれた)は、浅草の人気者となり、浅草オペラの最盛期に劣らぬ熱狂が劇場に復活した。浅草オペラは、日本国内におけるオペラ、および西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たしたのであった。歌劇というのは、舞台芸術の一種であり、セリフの一部、または全てを歌唱によって行う演劇であるが、西洋のオペラを指すことが多く、オペレッタというのは、軽歌劇や喜歌劇などといわれる。更にレビューやミュージカルを上演している日本の少女歌劇も歌劇と言っている。

また、演劇にあまり興味がないという人でも、テレビやラジオなどでドラマを楽しまれている方々は多いのではないかと思うが、NHKの朝ドラ「あさが来た」の平均視聴率は、20.3%と好調だったそうだが、視聴率とは、一定の時間単位内においてテレビ視聴者の割合であるが、NHKは調査票にその日のテレビ視聴を記入してもらう日記式を採用しているという。

演劇とは、俳優による演技を通し、何らかのストーリーやテーマなどを、観客にリアルタイムに表現する活動であるが、リアルタイムの演技ではない映画やテレビ・ドラマなどは、現代では演劇とは分けて考えられているが、例えばワン・シーンが非常に長いなど、俳優やスタッフが入念に稽古やリハーサルを重ねて撮影された場合、そのシーンや作品自体を演劇であるとか、演劇的だと評されることがあるようだ。(資料参照)



浅草オペラ



[382] "Japanese Opera"『日本のオペラ』2/3 

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月31日(土)09時37分3秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

それまでの日本の演劇というと、ほとんど歌舞伎というに等しく、あとは即興風コントなどであったが、そのため帝劇の出し物は、最初は帝劇専属の歌舞伎界の一流どころを集めた歌舞伎が中心であったが、やがて、喜歌劇や演奏会、外国から招いた一流の芸術家の公演なども上演されるようになった。

帝劇では、それまでは歌舞伎が主流であったので女優というものが存在しなかった。それで画期的な試みとして女優の養成に踏み切り、日本初の試みとして、帝劇のこけら落としに14名の女優が歌舞伎俳優に混ざって、西洋舞踊の「フラワーダンス」を演じ、その成果は大いに発揮され、観客は初めて見る女優というものの美しさには驚いたという。

こうして帝劇では、なかでも特筆すべきものが歌劇部の創立と歌劇の上演であった。大正2年(1913年)になると、歌劇部二期生が募集され、ダンス教師ジョパンニ・ピットリオ・ローシーが招かれたが、彼はロンドンのヒズ・マジェステイ・シアターで舞台監督兼振付をしていたが、5年の契約で家族と共に来日し、彼によってオペラ、オペレッタ、ダンスの基礎が日本に移入された。併し、ローシーの指導は厳しいかったので、逃げ出す者も出たが、後のオペレッタ界、音楽界、舞踊界、レヴュー界を背負って立った岸田辰弥、石井漠、高田せい子らが育っていったのであった。

大正2年6月には、グランド・オペラ、モーツアルトの『魔笛』が日本で始めて上演されたが、内容も高度であったため、出演者も観客にも理解されず失敗に終わってしまった。そうしたなかで、1914年(大正3年)9月のスッペ作曲『ポッカチオ』では、原信子が代理主演し、これが「男装の麗人」の第一号となった。併し、帝劇オペラは舞台美術やオーケストラなど経費がかかり興行的には常に赤字が続き、堪り兼ねた首脳陣は、1916年(大正5年)にはローシーとの契約満了を機に演劇部を解散してしまった。

だが、ローシーは、せっかく育てた日本のオペラ運動が諦めきれずオペラ運動を続けようと、自分の全資産をつぎ込んで赤坂見附の活動写真館を買い取り、オペラ館の改造して「ローヤル館」と称し、生徒たちを引き連れた。併し、まだ日本では本格的にオペラを楽しむ人は少なく、客を集めることが出来なく経済的に破綻し、ローシーはアメリカへ淋しく去って行った。そのローシーの蒔いた種は彼が去った後に芽を吹き、各方面で開花し、特に浅草においてオペラ時代と称するオペラ・ブームが捲き起こったのである。 (資料参照)



[381] "Japanese Opera" 日本のオペラ 1/3

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月31日(土)09時35分37秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

日本では1894年(明治27年)に、東京音楽学校(東京芸術大学)で、オーストリア=ハンガリー大使館職員によるドイツのヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作『ファウスト』の第1幕が上演されたことが、日本での歌劇(オペラ)の原点だと云われている。日露戦争後、日本では大国主義が芽生え、ヨーロッパにならって国立劇場の必要性が叫ばれ、1911年(明治44年)に西園寺公望の肝いりで、財閥が株主となってヨーロッパ風の華麗な劇場が東京、日比谷に帝国劇場として建設された。

帝国劇場は、ルネッサンス風の格調高く、当時としては最もモダンな洋風建築で、客席は3階席まであり、白と金のロココ風(曲線を多用する繊細なインテリア装飾)に作られ、広い廊下には赤い絨毯が敷きつめられ、高級な食堂、喫煙室、化粧室なども設置され、その豪華さは当時の人々の目を見晴らせたと言う。帝劇が開場すると「今日は帝劇、明日は三越」といわれるほど流行の先端となり東京の新名所になったのは周知のとおりである。

帝劇では、オープン1年前の1910年(明治43年)、管弦楽団員が募集され、歌劇部の第一期生が採用された。声楽の教師には、ドイツ人ペッオルドや三浦環、清水金太郎らが就任し、翌々年の1912年(明治45年)には、杉谷代水作、ユンケル作曲の創作歌劇「熊野(ゆや)」が上演された。 当時は、なにしろほんどの日本人は、オペラなど見たとこともなく、観客のほとんどが歌舞伎ファンだったので、歌劇を見るのは始めての連中ばかりで、楽長が舞台に向って指揮棒を振っているのを「邪魔だっ、引っ込めっ!」「お客に向って尻を向けるとは失敬だぞっ!」などと、3階席から罵声が飛んだと言う。

そして、やがて、十二単(じゅうにひとえ)に緋の長襦袢を着けた熊野がしずしずと登場し、バリトンで歌う歌詞が、日本語なのかドイツ語なのか、観客にはチンプンカンプン、観客席は水を打った静けさで、「熊野、ひとさし舞い候え」のセリフに、歌いながら舞いはじめると、生まれて始めて、はいた長袴(ながはかま)が、足にからみついて、さばききれずに舞台の真ん中でスッテンコロリンと尻餅をついてしまい、ウワーッという爆笑!押えに押さえていた観客が、堰を切ったように怒涛のように劇場を揺るがすばかりの喚声と哄笑であったという。いやはや散々な舞台であったようだが、この笑いころげる観客の中で阪急グループを創り上げた大実業家小林一三は、ある啓示を得、それは相当強烈な印象だったと云われている。(資料参照)



[380] "CinemaScope55" 「20世紀フォックスのワイドスクリーン」 3/3

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月29日(木)10時03分51秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

ザナックは、続いてロジャースとハマースタインの作品に目を向け、フォックスが既に「リリオム」の映画化権を1930年と34年の2回映画化していることから、この戯曲のミュージカル版『回転木馬』(Carousel)の映画化権を押さえ、同様に、映画版の『アンナとシャム王』に関わる権利から『王様と私』の映画化権も押さえる事が出来た。彼は『オクラホマ!』の70mm版とフォックス配給の35mm版を見比べ「トッドAO」がシネマスコープよりも明白に優れていることを知り、より大きなフォーマットの方式としてシネマスコープ55の開発を手掛けた。

この方式は、フィルム幅を35mmから55mm幅に広げるもので、これにはカメラ1台に5万ドルの投資が必要と言われた。『回転木馬』は1956年2月17日に公開され、55mmネガから起こした35mmの縮小焼き付けプリントが標準シネマスコープよりも、はるかに良質だったので、55mmのプリントまで作って公開する必要はないという判断であった。併し、『王様と私』は、ロジャースとハマースタインの舞台の中でもダリル・F・ザナックの最もお気に入りの作品ということもあって、彼はこの映画版をもっとも大がかりに公開することを望み『王様と私』のプレミア上映は、「シネマスコープ55」と決定された。

20世紀フォックスは、総額6000万ドルに及ぶ大投資をもって35mmのシネマスコープに成功したが、クローズアップ時の収差や解像度などにも問題があり、この難題の解決策として、55mm幅のフィルムを使用する事が検討され新方式が誕生したが、この方式は当初、35mmの4倍という意味「シネマスコープ4×35」(CinemaScope4×35)と呼ばれていたが、公式発表では「TCF 4×-55MM」と名付けられた。



20th Century Fox CinemaScope 55 (Logo 1080p)

TCFとは、「Twentieth Cetury Fox」で、4×はネガ画面の面積が35mmの4倍であることを意味し、55MMは55.625mmの幅のフィルムを表したものである。最終的に、このシステムは「シネマスコープ55」(CinemaScope55)という名称になった。1955年11月上旬、ニューヨークでこの方式が発表され『回転木馬』(1956)、『王様と私』(1956)の一部が挿入されたデモンストレーション用のフィルムが上映され、日本でも1956年4月19日東京宝塚劇場で、この方式の発表会が行われた。




[379] "CinemaScope55" 「20世紀フォックスのワイドスクリーン」 2/3

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月29日(木)10時01分15秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

20世紀フォックスは、当時RKOから映画化権を購入した『聖衣』を第1号作品として製作したが、この映画は、観客をテレビから引き戻すに相応しいスペクタクル巨編となり、1953年9月16日、ニューヨークのロキシーでプレミアが上映され、ワイド・スクリーン・ステレオ・サウンドの時代が幕が開かれたのである。この年の終わりまでに、ニューヨークの映画館は、すべてシネマスコープ上映が可能となり、クリスマスには、ニューヨーク近郊の84のシアターで『聖衣』のシネマスコープ上映が行われ、1954年3月25日には、フォクスはこの革命的方式を称えるアカデミー特別賞を受賞した。

ダリル・F・ザナックは、ミュージカルをシネマスコープによって『百万長者と結婚する方法』(How to Marry a Millionaire)(1953)や『ショウほど素敵な商売はない』(There's No Business Like Show Business)(1954)を成功させ、『ステート・フェア』(State Fair)を製作後、ロジャースとハマースタインとの関係がある『オクラホマ!』に着目したが、この作品は、すでにマイケル・ドットが権利を押さえていた。

この映画は、トッド自身の持っていた革新的なワイド・スクリーン方式の「トッドAO」の初の実用化となるはずであった。このシステムは、マグナとアメリカン・オプティカル・カンパニーの共同で開発されたもので、65mmフィルムを通常の秒速24コマではなく30コマで撮影し、シネマスコープに、ほとんど近い画面幅でより鮮明で、明るい画像が実現出来た。70mmトッドAO版の『オクラホマ!』は、1955年10月13日に公開され、この後、ほぼ20年続く「ワイド・スクリーン・ステレオ・サウンド」映画のロードショウ時代の幕開けとなった。



The Technirama Process - Technicolor 100(4.21)



[378] "CinemaScope55" 「20世紀フォックスのワイドスクリーン」1/3

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月28日(水)14時34分11秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ ロイド・トピックス!(Loyd Topics!)

1948年にシャーマン反トラスト委員会の勧告により映画製作会社が所持している劇場チェーンは、独占禁止法違反とみなされ、大手スタジオは劇場部門の切り離しが余儀なくされた。これはスタジオが製作した映画上映の保証がなくなったと言うことで、どの映画も興行的失敗となる可能性が出てくることであった。1940年代の半ばには、アメリカの映画観客数はピークを迎えたが、ほとんどの時期にテレビが台頭し映画館へ行くよりも節約になるということで、40年代の終わり頃には観客が減少した。

1951年には、アメリカ全土に少なくも3000の映画館が閉館に追い込まれ、観客数は4分の1が減少したといわれている。このような観客減少対策を進めるために、20世紀フォックスのダリル・F・ザナックを始め映画産業界では、映画をテレビよりも大きく質の高いものにする努力が求められ、大手スタジオのすべては、カラー映画の製作本数を増大させた。併し、まもなくカラー・テレビ技術が完成、結局、スタジオは同じ苦境に立たされることになり、この課題を解決するために考えられたのがワイドスクリーンであった。



"The CinemaScope Story"(18.39)

この実験は、実に30年前から続けられてきたが、実用化の突破口となったのは「シネラマ」であった。この方式は、シンクロナイズした3台の映写機を並べて3倍の横幅の広いスクリーンの投射するシステムで、1953年のシネラマのロードショウお披露目興業は大変な評判を呼んだが、この方式は高価であると共に劇的なシーンの撮影には問題があった。併し、「シネラマ」によるワイド・スクリーン映写の成功で、昔のワイド・スクリーン方式に再び脚光が浴び、その一つがアンリ・クレティアン博士が開発した「アナモルフォスコープ」であった。

20世紀フォックスは、ハイパーゴナール社の製造した特殊レンズを使用したシステムの特許を1952年12月18日に取得し、シネマスコープと名付けた。ボシュ・ロム社が製造したシネマスコープ・レンズは、撮影時に横方向に圧縮してフィルムに記録し、映写機のレンズは、この正反対の働きをして、映像を復元して、もとの見た目に戻して映写するものである。
これは通常のフィルム縦横比3:4の水平方向が、ほぼ2倍広い画面が出来るものであった。初期のデモンストレーションで、シネマスコープは大変な成功を収めたが、画面の壮大さから比較しモノラル音声ではサウンドに厚みがないので、20世紀フォックスでは、4チャンネルの磁気サウンド・トラック・システムをセットで開発し、シネマスコープとステレオ・サウンドは、テレビの侵略に対抗するための2つの秘密兵器となったのである。



CinemaScope Annoucement (3.53) (George Eastman Museum)  



[377] 『ソルジャー・ブルー』 (Soldier Blue)(1970)

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月28日(水)14時25分49秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ 懐かしの名作映画鑑賞(公開:1971年2月13日)

Description
冒頭に人類5000年の歴史は血で記されてきた。文化を築いた功績は大きいが、カインの弟殺し以来、魂の腐敗は見逃せない。この映画は軍隊の圧倒的勝利で終わるが血の欲望が理性より強いことを意味し、この物語は事実である。とテロップが流れる。

インデアン虐殺で有名なサンドクリークの虐殺の実話をもと映画化されたもので、語られざる西部開拓史と、そこに燃えた激しい青春の姿を描いている。騎兵隊の兵士(Soldier Blue)を実態に近似した描き方によって西部劇史上画期的な作品となり、また、インディアンが少数民族の権利を主張するようになって、この作品を最後に西部劇の分野はなくなってしまったと言っても過言ではない。尚、この時期は南北戦争の最中で、北軍のシャーマン将軍によってジョージア州アトランアタが占領され、更にサヴァンアへ向け、シヴィングストン大佐の率いるコロラド準州の民兵によってサンドクリークの虐殺が行われた。

ラストに1864年11月29日700名のコロラド騎兵隊は、シャイアンの村を襲った。インデイアンは降伏の白旗を掲げたが、騎兵隊は攻撃を開始し500人のインデイアンを虐殺したが、大部分は女と子供だった。100人以上の頭皮が剥がされ、多くの女性が犯された。陸軍のマイルズ大将は、この虐殺をアメリカ史上最も嫌悪すべき犯罪と指摘した。とテロップが流れる。
Storyline
1860年代アメリカ中西部のコロラド。先住民のインディアンと開拓者、アウトローや騎兵隊の衝突は尽きることがなく、血の殺戮、硝煙の匂いが立ちこめていた。クレスタ(キャンディス・バーゲン)は、旅行中、シャイアン族に襲われ、囚われの身でありながら比較的自由な生活が許されていたが、婚約者がいるので一族に別れを告げ、彼の待つ砦へ向かうところであった。だが、護送する騎兵隊は給料を運んでいたため待ち伏せに遭い生き残ったのはクレスタとホーナス(ピーター・ストラウス)という若い兵士だけだったが・・。

■アメリカ映画(AVCO-Enbassy)Color 113 min.(アブコ・エンバシー配給)
■cast:キャンディス・バーゲン、ピーター・ストロース、ドナルド・プレゼンス、ホルヘ・リベロ、ジョン・アンダーソン
■staff:製作:ハロルド・ロブ、ガブリエル・カッカ、監督:ラルフ・ネルソン、 製作総指揮:ジョゼフ・E・レヴィン、 原作:セオドア・V・オルセン、 脚色:ジョン・ゲイ、 撮影:ロバート・ハウザー、 音楽:ロイ・バッド、主題曲:Buffy Sainte Marie(バフィ・セイント・マリー)

https://youtu.be/3tEkuLm3SOo
Soldier Blue (1970) Trailer



[376] 『大いなる西部』 (The Big Country) (1957)

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月26日(月)13時05分53秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ 懐かしの名作映画鑑賞(公開:1958年12月25日)

Description
1870年代のテキサスを舞台に水源のある土地を巡って対立する二つの大牧場の争いが中心だが、詩情豊かに、雄大なスケールで西部が描かれている。西部劇での決闘といえば、お互いに歩いて近づき、にらみ合った後、早撃ち(クイック・ドロー)が、オーソドックスだが、この映画ではグレゴリー・ペックとチャック・コナーズ間で行われるのは、旧大陸時代に使われたフリント・ロック式の単発銃が使われている。

特に印象が残るのは、延々と繰り広げられるグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンの殴り合う"マラソン・フィストファイト"のシーンであるが、男同士のわだかまりは殴り合いで解決するしかないようである。映画史上最長の殴り合いシーンといわれる『静かなる男』(1952)は、ジョン・ウェインとヴィクター・マクラグレンが良く知られているが、アメリカ映画にはドラマチックな殴り合いのシーンが多い。また、タイトル・バックや、劇中に流れるジェローム・モロスの壮大で勇壮なスコアは大西部に相応しく胸を打たれる。



The Big Country - Soundtrack Suite (Jerome Moross)

Storyline
サンラファエルに東部からジェームズ・マッケイ(グレゴリー・ペック)が、テリル少佐の1人娘パット(キャロル・ベイカー)と結婚するためにやってきた。出迎えた牧童頭のスチーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)と、パットは、スチーヴを先に帰して彼と父の牧場に向かったが、途中で酒に酔ったハナシー家の息子パック(チャック・コナーズ)たちに悪戯を受けるのだったが、相手にしなかった。パットの父テリル(チャールズ・ビックフォード)少佐は大地主ルファス・ハナシー(バール・アイヴス)と勢力を二分し、争っていて、共に目をつけているのは、水源のある土地ビッグ・マディであった。この土地は、学校教師でパットの親友ジュリー・マラゴン(ジーン・シモンズ)が所有していたが・・。

■アメリカ映画(United Artists)(Earlmar Productions)Black and White 92 min.
■cast:グレゴリー・ペック、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、チャールトン・ヘストン、バール・アイヴス、チャールズ・ビックフォード、チャック・コナーズ
■staff:製作:グレゴリー・ペック、ウィリアム・ワイラー、監督:ウィリアム・ワイラー、原作:ドナルド・ハミルトン、脚本:ジェームズ・R・ウェッブ、サイ・バートレット、ロバート・ワイルダー、脚色:ジェサミン・ウェスト、ロバート・ワイラー、撮影:フランツ・プラナー、 音楽:ジェローム・モロス、美術:フランク・ホテリング

https://youtu.be/rY7PSt91TKI
The Big Country (1958) Official Trailer



[375] 『真昼の決闘』(High Noon) (1952)

投稿者: loyd 投稿日:2019年 8月25日(日)20時54分10秒 i121-117-189-5.s41.a001.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

■ 懐かしの名作映画鑑賞(公開:1952年9月16日)

Description
ジョン・W・カニンガム原作の「The Tin Star」をもとに映画化されたが、アカデミー賞では主演男優賞、歌曲賞を受賞した。ゲイリー・クーパーは、『ヨーク軍曹』(1941)についで2度目のオスカー受賞となり、歌曲賞を受賞したディミトリ・ティオムキン作曲、ネッド・ワシントン作詞のバラード「ハイヌーン」がテックス・リッターの歌ではじまり、これがクレジット・タイトルにかぶさり、オープニング・シーンでは物語を暗示させる。この曲は大ヒットし話題となった。



High Noon」Frankie Laine

Storyline
ストーリーは、西部のハドリーヴィルの町、ある日曜日の朝。この町の保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)は、保安官事務所でエミイ・ケーン(グレイス・ケリー)と結婚式を挙げていた。これを機に保安官の職を辞し、他の町へ行くつもりだった。ところが、彼の元へ、かつて彼が監獄へ送った無頼漢フランク・ミラー(アイアン・マクドナルド)とベン・ミラー(シェブ・ウーリー)が保釈されて仲間と共に復讐にやって来るという報せが届いた。奴等は正午到着の列車で町に着くが、時計は10時40分。彼は再び保安官のバッジを胸につけた・・。

■アメリカ映画(United Artists)Black and White 99 min.
■cast:ゲイリー・クーパー、トーマス・ミッチェル、ロイド・ブリッジス、カティ・フラード、グレイス・ケリー、オット・クルーガー、ロン・チャニー、シェブ・ウーリー
■staff:製作:スタンリー・クレイマー、監督:フレッド・ジンネマン、原作:ジョン・W・カニンガム、脚色:カール・フォアマン、撮影:フロイド・クロスビー、 音楽:ディミトリ・ティオムキン、美術:ルドルフ・スターナド

https://youtu.be/g9CR_tib0CA
High Noon (1952) Official Trailer


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